語録(新しいことを始めるならまず過去を捨てろ)
月刊ベンチャー・リンク(出版 株式会社ベンチャー・リンク)
2006年6月号より許可を得て転載
老舗証券会社の松井証券は、インターネット株取引のパイオニアとして脚光を浴びる。先導役となったのが、社長の松井道夫(53)だ。その後も業界の常識を覆す施策を打ち出し、同社をネット取引でトップクラスに押し上げた。
日本郵船で一足早く規制緩和を経験し、バブル絶頂期に松井証券へ
1998年、松井証券は国内初の本格的インターネット株取引を開始した。当時はまだ店頭での対面取引が主流。日本でのネット取引の礎を築き、証券市場と投資家との関わりを大きく変える同社のオンライン証券取引システム「ネットストック」は、IT(情報技術)社会を先取りした新しいビジネスモデルとして高く評価された。「兜町の風雲児」。証券業界の常識を打ち破るサービスを次々と打ち出す松井は、当時そう呼ばれた。しかし松井は言う。
「インターネットは単なるツールです。ネット取引が大きくクローズアップされたから、『松井証券=IT企業』というイメージを持たれているが、ネットストックを始めるまでの10年のほうが松井証券にとっては意味がある。僕の一番の改革は、外交セールスをやめたことですよ」
当時当たり前だったセールスを廃止する。従来の手法を否定する決断には、松井証券に入社する以前の経験が少なからず影響している。
大学卒業後、日本郵船に入社した松井は、80年代、海運業界で自由化の荒波を経験する。いかに運賃を下げるか、生き残るための競争を強いられた。コストダウンに奮闘するなか、縁あって結婚した女性は松井証券2代目社長の一人娘だった。
「最初は娘婿として松井証券を継ぐつもりなんてまったくなかった。義父も何も言わなかったんだけど、継ぐと決めて義父に申し出たら『おやんなさいよ、でもつまんないよ』って言われてね。入社したのが87年で、まさにバブル期のピーク。業界の末席にいるような松井証券でさえ、年間に10億円、20億円という利益を上げてましたね。日本郵船時代、競争の波にもまれて苦しんで働いていたのに、突然、"左うちわの世界"を経験した。そこで思ったのが、『こんなのおかしい。お天道さんが許すわけない』。そうしたら、90年に株価大暴落です。バブル崩壊で証券業界全体がにっちもさっちもいかなくなった。このまま会社が潰れたら、継いだ自分はまるでピエロだ。その時初めて何とかしなければという執念が湧いてきたんです」
松井流の数式
- 過去を捨てた場合
マイナスを引くことでプラスになる
2−(−1) →3 になる
- 過去を捨てずに何かを加える場合
2+(−1) →1 になってしまう
外交セールスを廃止 電話営業に切り替え第二の創業
ある日、ベテラン営業マンに何をウリにして営業をしているのかと聞いたところ、答えは「誠意」だった。誠意は本来あって当たり前。手数料自由化になっても、顧客は誠意にお金を払ってくれるのか。本当は望まないコストなのではないか。そこで松井が考えたのが、外交セールスの廃止だった。「これからコスト競争が始まるぞ」という業界への宣戦布告だ。
当然、社内からは「営業体制を作るのに、どれだけ苦労したか分かるのか。何も知らないで」と反発を受ける。会社を去った社員も少なくなかった。しかし、外交セールスを廃止し、コールセンターを作って電話営業に切り替えたことは正解だった。顧客数は5倍に拡大した。松井はこの決断をこう振り返る。
「松井証券の第二の創業期のスタートともいえる大きな転換期だった」
96年には、証券会社が株券などの有価証券を顧客から預かる場合に徴収していた保護預かり料を無料化する。さらに翌年、店頭株の売買委託手数料を半額に引き下げた。そして99年、今度はコールセンターに代えてインターネット取引に特化することを決断する。ここには、松井の「捨てる」という哲学が生きている。
「儲かっているコールセンターをやめて、まだ海のものとも山のものとも分からぬインターネットに替えるなんて正気か、と言われたね。だけど、結論からいえば、大正解だったでしょう。社長になってからの10年を振り返ると、『過去を捨てた決断』は大体うまくいっている。逆に、『捨てないで加える決断』はうまくいかない。新しいことを取り入れようと思ったら、まず過去を捨てることが大前提だと思う。世の中が変化しているのに、とりあえず持っていていらなくなったら捨てようなんて、虫がいいことは通用しないよ」
これを松井流の数式で表わすと「2−1=3、2+1=1」となる。
2−1の1は過去のもの、つまり−1。2−(−1)となり、過去を捨てればより大きなものが得られるということだ。一方、2+1の1は、表面上は新しいものを加えているようで、過去のものを捨てずにいるためにマイナス効果しかもたらさない。つまり−1を足しても、1にしかならないことを表わしている。
当初はインターネットが普及するまで、当面コールセンターと並列でいく予定だったが、松井はネット取引に特化する決断を下したのだ。
無期限信用取引など新しいアイデアを打ち出し業界トップクラスに成長
インターネット取引の利点は「自宅でできる」ことにとどまらない。自分の好きな時に自由に注文が出せる上、携帯電話でも取引が可能。株価などの情報も、最新の内容をいつでもどこでも入手できる。
日本証券業協会の「インターネット取引に関する調査結果」によると、2000年度は株式取引売買代金のうちネット取引が占める割合はわずか4.7%だったのが、04年度にはネット取引が全体の26%に上り、年間取引額は130兆円を超えている。ここ4〜5年のネット取引の急増を見ると、松井の読みが当たっていたのは一目瞭然だ。
99年、株式売買委託手数料の自由化に合わせ、松井証券は新手数料体系「ボックスレート」を開始した。当初一日の約定代金の合計と売買回数に応じた定額料金制としてスタートしたが、翌年には売買回数の制限は外し、「一日の約定代金○円までなら手数料○円」という分かりやすいものに改めた。その後も、銀行預金の利息のように預株(よかぶ)料が受け取れる「預株制度」、信用取引の返済期限を実質無期限にした「無期限信用取引」など、業界に新風を吹き込む。
1918年創業という老舗の松井証券は、01年にはネット証券会社として初の東証1部上場を果たす。06年3月期は営業収益が571億円、経常利益が371億円で、ROE(株主資本利益率)は35.2%に迫った。
不満からは何も生まれない。不安を行動の糧にして可能性を模索する
次々と新機軸を打ち出す松井を動かしているのは、「不安」だという。
「英バージングループのリチャード・ブランソン会長は、大企業を率いていながら、熱気球での太平洋横断など命を落としかねない冒険もする。インタビュアーが質問したら、彼はこう答えたんだ。『そういう危険がなかったら(人生は)面白くないでしょう。経営も同じ。絶対に保証されているものなんて何もない。僕は不安を楽しんでいる。人生なんて、不安を楽しむことと同義だ』。いい言葉だと思ったね。大きな不安があればあるほど、成功したときのリターン(報酬)も大きい。まさにハイリスク・ハイリターンだよ」
不安と聞くと、日本人はマイナスの感情をイメージしがちだが、松井の見方は違う。
「本当にマイナスなのは不満。人生を楽しむということは、主体性を持って生きているということだ」
松井は、松下電器産業を創業した故松下幸之助の「執念あるものは可能性から発想する。執念なきものは困難から発想する」という言葉にも強い共感を抱く。
「この言葉のなかの『執念』を『主体性』という言葉に置き換えてみてください。さらに『可能性』を『不安』に、『困難』を『不満』にしてみると、こう言えませんか。『主体性のある人間は、不安を持って行動する。一方、主体性のない人間は、必ず不満を持って行動する』。ブランソン氏の言葉とまったく同じことを言ってるんだ」
松井証券に入社した当時、松井が海運業界と証券業界のギャップを目の当たりにして感じたのは『不満』だった。しかし、バブル崩壊で、このままでは会社が潰れてしまうというときに感じたのは「何とかしなければ」という執念と不安。そしてようやく松井は主体性を持って可能性から考え、外交セールス廃止やインターネット取引特化などの思い切った決断ができたのだ。
イノベーティブなサービスの提供と実績が評価され「第1回ポーター賞」を受賞
2001年12月に一橋大学大学院国際企業戦略研究科が主催する「第1回ポーター賞」を受賞。賞の名前は競争戦略論の第一人者であり、長年にわたって日本企業に関心を寄せてきた、ハーバード大学のマイケル・E・ポーター教授に由来している。
受賞理由は、「松井の競争戦略であるトレードオフの明確さ。つまり、何をして何をしないか、の選択を意味する。松井は外交セールスの廃止やインターネット取引特化などの思い切った決断と実行により、フルライン型の証券業者とは比較にならない低コスト構造をつくりあげた。また、個人の信用取引に特化することで、信用取引で業界トップ、オンライン証券におけるシェア1位を獲得した。松井の利益率は証券業界の平均を大幅に上回っている」。
インターネット証券各社の追随で売買代金シェア落とすも新生松井証券へ挑戦
松井は今、大きな不安を感じている。インターネット証券の手数料値下げ競争のなかで、売買代金シェアを落としているからだ。01年3月期下期のシェアは22%、しかし06年3月期上期は13%に落ち込んだ。
「この5年間、捨てることをしなかった。ネット証券のパイオニアとして自信を持っていたけど、それはお客さんにとって関係のないこと。そろそろ大きな決断をしなきゃいけない。そのひとつは、証券会社の収益源である引受市場の改革です」
企業が新規に株式を公開・上場する場合、幹事証券・引受証券などが発行会社から手数料を受け取り株を引き受け、投資家を募って株式を販売するが、その手数料やシェア配分は昔からの慣行が残った状態になっている。今や個人投資家の取引の8割以上がネット取引証券経由であるにもかかわらず、新規公開株のネット証券への割当は非常に少ないため、個人投資家が新規公開株を公募で入手できる確率は大変低いのだ。これを改革する意味は大きい。
ネット証券は、今や売買高が年間300兆円以上となり、さらに市場規模が拡大することが予想される。
「松井証券がどう変わっていくか、見ていてください」
松井は不安を楽しみながら、また新たな挑戦に向けて「捨てる」決断をしようとしている。
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